47年の仕事人生を振り返る

2023/04/01

リタイア 仕事

昨日、3月31日、職場のみなさんに見送られて、大学での6年間の勤めを終えました。他にも退職された方がおられ、その一方で4月1日から来られる方も。桜の季節は出会いと別れの季節です。


FIRE(Financial Independence, Retire Early)を夢見ながらも、Financial Independence からは程遠く、70を超えてからのRetireとなりました。それでもまだまだ楽しめる時間はたっぷりあります。


これをきっかけに、私の仕事人生を、今朝の散歩で撮影した桜の写真とともに振り返ってみたいと思います。


半導体メモリの設計



私が大学を出て就職したのは1976年。就職先は日立製作所でした。大学ではレーザーを研究テーマにしていたため、日立の採用面接では「中研でやっている半導体レーザーの研究をやりたい」と要望したのですが、「いやそんなピンポイントの要望は聞けない」と言われたのを覚えています。

でも願いは半分だけ聞いてもらえ、配属は半導体(メモリ)を製造している武蔵工場でした。


当時は、DRAM市場で日本メーカーの急成長が始まった時代でした。1980年代初頭には米国を抜き、日本がシェアトップになりました。64Kビット時代には日立製作所、256Kビットでは日本電気(NEC)、1Mビットでは東芝と、次々に主役が交代するというデッドヒートをやっていました。そして1986年には世界のDRAM市場における日本企業のシェアは80%に達しています。


私はDRAMではありませんでしたが、不揮発性メモリの開発を担当。最先端のメモリを開発できるという喜びの一方で、デッドヒートのプレッシャーを受け続けていました。


開発は時間との競争。試作品を作って評価するのですが、そこで設計ミスが見つかるとリカバーするのに数ヶ月はかかります。そんなとき、上司はメモリの価格曲線を示しながら「数ヶ月遅れることで、どれだけ売上が減少するのかわかっているのか、超特急でリカバーせよ、明日の朝一番で計画を示しなさい」などとムチを入れてくれました。そんなときは徹夜で計画を練ることになります。

※半導体メモリの価格は時間とともに急激に下がり、次の世代に切り替わります。このため市場に出遅れると価格の高い時期を全部競合に持っていかれ、遅れて参入した時には価格は何分の1にも下がっています。


そんな毎日の積み重ねで、だんだん疲れが蓄積していきます。

そして3年目に他の家電メーカーへの転職を決意。このときは上司の遺留で、もう少しやってみようと、転職を思いとどまります。

しかし仕事の状況は変わりません。競争はますます激しくなっていきます。


そして5年目の1981年、京都の名前を聞いたこともない会社に転職することになります。


画像処理システムの開発



その会社は大日本スクリーン製造株式会社(現スクリーン)。いまでこそ半導体装置メーカーですが、当時はブラウン管テレビの部品であるシャドウマスクや印刷製版関連の装置を作っているメーカーでした。


ここでは、印刷で使う画像処理システムの開発、設計に従事します。メモリを開発する立場から使う立場に逆転、開発費も豊富で、自由に開発でき、毎日が楽しくてしかたありませんでした。日立時代と同じように夜遅くまで働いても、好きでやっていることなので、疲れはありません。転職して良かったと感じていました。


画像処理システムは、巨大なハードとミニコンで構成された、印刷用画像を処理するもので、1セットが何億円もするものでした。そしてそんな高価なシステムを導入しても、印刷会社は数年で元をとることができました。それだけカラー印刷は付加価値の高いものだったのです。


Desktop Publishing



パソコンが普及し始めた頃、とある展示会でフォトショップというソフトを知ります。価格は(たったの)30万円、それで何億もする大型システムでやっている画像処理ができると言うのですから衝撃でした。

1984年にはAppleがMacintoshを発売。これを期に、印刷用の原稿をパソコンで作成することが一般化します。いわゆるDTP(Desktop Publishing)です。


DTPの普及によって、印刷の前工程であった「製版」という作業がパソコンでできるようになり、「製版業」という業界が消滅します。

巨大な画像処理システムも時代遅れになりました。変化があまりにも急だったため、導入した高価なシステムの減価償却が終わらないうちに、無用の長物になる例が頻発し、製版会社や印刷会社の恨みを買ったことを覚えています。

DTPの普及に伴い、印刷会社向けの製品は、CTP(Computer To Plate)という、パソコンのデータから直接、印刷用の版を作り出す装置が主流となっていきます。

パソコンで作成したPDFデータをコンピュータで処理して、印刷用のデータに変換し、そのデータでレーザーをON/OFFして版を焼き付けるという装置です。データが上手く処理できないバグによる顧客からのクレームに悩まされる日々でした。


IT



このようにして印刷業界のデジタル化が進むにつれ、印刷業界がIT産業に近づいていきます。無くなった製版という売上をカバーするため、印刷会社がホームページ作成サービスを始めたということもあります。


これに対応するため、会社として印刷会社向けのITサービスを手掛けることになり、その部門を率いることになりました。


印刷用のデータは画像が多く、当時としては大容量で、ネットワークでのやり取りは大変でした。そのために、富士写真フイルム、NTTコミュニケーションと組んで、大容量データを送受信するサービスを手掛けたのも、いい思い出です。


売上や利益での会社への貢献は大きくありませんでしたが、当時、一緒に頑張ったメンバーは、今も世界で活躍しています。そういう意味ではITへのチャレンジは価値があったと考えています。


ロボット



ふとしたきっかけで、スクリーンは立命館大学と共同研究を行うことになり、私に白羽の矢が立ちました。数人の開発メンバーが立命館大学内に駐在しての共同研究です。テーマは水中ロボットで、ロボット本体は立命館大学が作り、スクリーンはロボットの目を担当します。


2つのカメラの画像で立体を認識するという試みで、これは今のスバルに搭載されているアイサイトと同様の仕組みです。開発は難航しましたが、この目の部分は、ロボット展で、ロボットがレゴをつかんで組み立てるデモを行うところまで進めることができました。


ちょうどそのころ、会社が経営危機となり、これ以上の共同研究が難しくなります。


経営の一端



私は立命館大学から本社に呼び戻され、総合戦略室という経営の一端を担う部署に入ります。経営危機や、それにともなって実施したリストラなどで、痛み荒んだ社内を立て直すのが役割でした。

ざっくばらんトークと銘打って、社長や会長と現場の社員が話をする場を作るなどの活動を行いました。

私自身、どれだけの貢献ができたかは疑問ですが、これまで「開発」という技術面しか知らなかった私にとっては、企業を人、モノ、金という側面でとらえて、必要な施策を実行していくというのは、非常に新鮮な経験でした。

IT子会社へ




そんなことをしている間に光陰矢の如しで、60歳の定年が近づいてきました。その定年を待たずに打診されたのが、IT子会社への出向&転籍です。これまでのITに関する経験と、ちょっとは経営に携わったということを評価しての異動です。


最初の一年は部長として仕事を覚えるための見習い、その後、転籍して取締役として社長を支える役割を担いました。


IT子会社は社内すべてのネットワークやシステムの管理、電話(固定電話、PHS内線、そしてスマホ)の支給と管理、パソコンの管理など、ITインフラすべてを管理するのが役割です。


ものすごく重要な役割で、失敗は許されず、緊張を強いられる毎日です。システムが止まれば、夜中であっても即座に対応して復帰しなければなりません。

思い出深いのが停電事件です。メインシステムは、とある社外のサーバーセンターに設置しているのですが、そこの電源工事で電源装置の不具合とミスがあり、夜中に2分ほどの停電が発生し、メインシステムが停止してしまったのです。

責任はサーバーセンターを運営している会社にあるのですが、会社のメインシステムを止めてしまったという責任から逃れることはできません。本社から説明と今後の対応について厳しく追求されるなど、本当に大変でした。


ITインフラの運用というのは、完璧に行って当たり前。何かミスがあるとマイナスということで、0点満点の仕事です。これは精神的に辛いものがあります。

本社と子会社という関係について、疑問を持ったのもこの頃、また派遣や業務請負について知ったのも、この頃でした。一人ひとりは優秀な技術者であるにもかかわらず、子会社だから、派遣や請負だからという理由で、待遇は大きく異なります。


このようなネガティブなことを考えることもありましたが、多くの優秀なIT技術者に囲まれ、私にとって非常に刺激的で、有益な経験でした。取締役として企業を経営する経験も、私の視野を大きく広げてくれました。


そんなIT時代も数年でお役御免となり、リタイア生活になります。


奈良大学



会社を去って、のんびりしていた時、ふとしたところから「奈良大学に来てみない」との声がかかりました。


大学と言えば、立命館に詰めていた頃以来で、わくわくしてきます。そうは言っても、奈良大学は文系の大学で、仕事もキャリアセンターという、全く経験のない世界です。私で務まるかとの不安をいだきつつも、何回か大学に寄せていただいて、チャレンジすることにしました。


右も左もわからない世界。出勤簿にハンコを押す、回覧物がたくさん回ってくる、稟議決裁はスタンプラリーなど、50年前の超アナログ世界。そんな戸惑いを感じながらも、若い学生への支援を行う仕事は非常に刺激的で、やりがいのあるものでした。


キャリアセンターのメンバーにも恵まれ、わからないことやできないことがあっても、みんなのチームワークで解決してしまうメンバーたちでした。女性が多いこともあって、いつも笑顔や笑い声の絶えない、すばらしい環境でした。


いままでの企業勤めでは、いくら楽しいと言っても、常に重圧を感じており、日曜日の夜になるとサザエさんシンドロームに悩まされていました。

※サザエさん症候群:日曜日のサザエさんが放映される時間になると月曜日の出勤を思って憂鬱になること。


でも奈良大学に移ってから、サザエさんシンドロームに悩まされることはなくなり、月曜日が待ち遠しいとまではいかないものの、本当に楽しく過ごすことができました。こんなにストレスなく仕事ができたのは初めての経験です。


コロナ



やっと仕事に慣れてきた時に襲ってきたのがコロナです。まずは授業ができなくなりました。またキャリアセンターでは多くのガイダンスを行っており、資格習得のための講座なども実施しています。これがすべてできなくなりました。


結果的にはZOOMなどを活用したオンライン化によって対応することになるのですが、紙とハンコで運営している大学にとっては、ものすごく高いハードルです。

zoomって何? 机の上のPC(デスクトップPC)にはマイクもカメラもついてないけど。


そんな状態から大騒ぎでオンライン化の対応を進めました。流石に学生は若いだけあって、zoomなどの新しい技術にはすぐに対応してきます。

その結果、ガイダンスや講座のオンライン化を進めることができました。また在宅勤務が実施されたときも、キャリアセンターでは在宅で仕事ができる環境を整え、毎日の朝礼をオンラインで実施することができました。

何十社を集めて実施していた合同企業説明会も自力でオンライン化することができました。


大変でしたが、新しいもの好きの私にとって、本当にワクワクする楽しい仕事でした。よくみんなついてきてくれたと感謝でいっぱいです。


リタイア



コロナ騒ぎも収束しつつあり、入学式も普通に実施できるようになりました。授業も全て対面で行われる予定です。私の役目も一段落で、心置きなく3月31日のリタイアを迎えることができました。


これからは長い長い連休の始まりです。1000連休?もしかしたら5000連休かも。。。


長い連休をどのように過ごすか、計画は何もありませんが、都度都度、興味を持ったもの、関心を持ったものにチャレンジして、ワクワクする時間を過ごしたいと思っています。


当面の関心は、ガーデニング、AI、メタバース、Web3.0などでしょうか。


時々の取り組みについて、このブログで発信していきたいと考えています。



引き続き、よろしくお願い申し上げます。